石清水八幡宮の歴史

石清水八幡宮の由来

石清水八幡宮 由緒
祭神:應神天皇・仲哀天皇・神功皇后
創建:天平十一年(西暦七三九年)八月十五日
當神社は、奈良時代 舊山田郡本山郷の一郷一社の氏神として、九州宇佐八幡宮より別御霊を御勧請申上げ時の栄枯盛衰の変轉ありたりと雖も、御神禮は当時よりそのまま奉安申上げ現在に至る。
貞観元年元山郷を以て石清水八幡宮神供料とせられ、東鑑嘉禎七月二十五日の下文に、「石清水領讃岐国元山庄被止足立木工助遠親知行地頭職一圓被下宮寺」
弘仁元年僧空海此の地に来たり、久米寺方丈山宿坊に泊りその夜瑞光空海に示現す。
依って翌日自ら光源を尋ねしに 八幡宮の祠あり畏み親しく参拝なし神恩を謝した。
當地は古代天津久米命の裔の永住地により地名を久米と稱し、久米宮、久米八幡宮 久米石清水八幡宮と奉称申上げてきた。
全讃史に「天文末久米六兵衛者潜居此山常信八幡神募里人立祠以此縁故 曰久米山久米寺主之」と見ゆ。
永正年年中長宗我部軍の兵火に罹り、同郷久米の地に祠を立て奉齋す。
元和六年九月社司高倉氏修造。更に寛文四年修造す。
元禄六年社殿を舊久米のこの地に復し、明治五年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
川添の東の方を最近では東山崎町と呼んでいますが大昔、この一帯がまだまだ海浜だった頃に、天孫族の神々が久米山の岬に住み着いたと言われています。
​今の石清水八幡宮に伝わっている伝説では神武天皇がまだ即位をする前、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)と呼ばれていた時代、いわゆる東征されたさいこの沖の瀬戸内を船で行かれていて台風に遭遇、一行は山崎の浦に避難、上陸されたといいます。
​波穏やかになって再び大和に向かった時、天津久米命(アメツクメノミコト)と申す神様一行が取り残されたというのです。
アメツコヤドノミコトなどの他の神様はカムヤマトイワレヒコノミコトとともに大和に向かったのでした。
残ったアメツクメノミコト一行はこの山崎の地が気に入って住み着きました。
それからこの一帯が久米と言うようになり久米山にもなったのでしょう。
そして子孫たちは久米山の麓に宇佐の神を奉ったと言うことです。
これが今日の神社のそもそものルーツだと言われています。
この天孫族の子孫がこの地を支配することになってここに巨大な墳墓を築いたと言われています。
茶臼山古墳がそれだというのです。
付近に手洗い水とか大通りという地名があるのもこの時代の名残かもしれません。
久米池のほとりにある石清水八幡は、古くアメツクメノミコトの故地と伝わっていますが久米山に茶臼山古墳があるように非常に古くから開かれていたといいます。
江戸時代にもその古さはわからないほど古かったと言われてます。
アメツクメノミコトという、天孫族のゆかりといわれることは海辺に近く開発が早かったと言うことでしょう。
​いつのころか昔、由緒ある社があったが天平年間にこの社に大自在王が出現、その後に弘仁年間、和泉国の久米というところから久米の号を受けて久米正八幡宮としたことを伝えられます。
​それは空海上人のお力だと言われているのです。
​この地に来た空海がここに一伯、瑞光に接して不思議に思いその光源を訪ねて八幡の祠を見つけたのが始まりだと言われてます。
その八幡様を移して祭り、その後に郷社としてあがめるようになったと言うことです。
​その後、元山の一帯を神供料として寄進、栄えましたが相次ぐ兵乱で衰微していきました。
そして江戸中期に至って今の地に移して再興されました。
​祭神は石清水八幡が祭られて東讃の有力社として今日の発展に至っているのです。
何回かの移転によってその都度、整備され、久米池のほとりに今日のような社殿になったのです。
​空海が拝んだ瑞光というのは久米山の方角です。